この記事を読んでみて、マルチエンディングをそう捉える人もいるんだなと思った。
>エロゲ・ギャルゲで、主人公の選択肢で結ばれる相手が変わるというのが好きじゃない。
>主人公が浮気性で変節漢の軟弱者に思えてしまうからなのだ。
>「え、何?この主人公はその人を愛してるんじゃ無くって、状況的にそうなったからつきあってんですか!?それ酷くない?」という。
そんな風に書いてあるけれど、それは違うんじゃないかなと思う。
結論から言えば、「その主人公は、その人を愛せるようになったから、付き合うことができるようになるんじゃないの? つーか、つかつか、主人公がその人を愛するためじゃなくて、その人に愛するために選択肢があるんじゃないか」ということだ。
こっちが一方的に好きで向かっていっても、相手がこっちを好きじゃなかったら、それはストーカーじゃないのか? 友人が言っていたが、「ゲームをクリアをするためにはその相手をストーキングすることだ」と言っていた。
ヒロインは無条件に主人公を好きになってくれるわけではない。ヒロインが好きになってくれる道筋を選んでいるのだ。だから、「こちらが愛しているだけで付き合うことができない」のだ。状況的にそうなることができたから、「付き合える」のではないかと思うのだ。
主人公が、一方的な権力でもってその相手と付き合うわけじゃないのだ。というか、ゲームなんだ。要するにあるキャラクターとのフラグを立て、成立させることが趣旨なのだ。だから、繰り返すことができるのだし、どのキャラクターのフラグを立ててもいいのである。自分としては、キャラクターによってフラグの立てやすさ、つまり難易度に違いがあっても面白いんじゃないかと思ってしまうが多分そんなゲームは一般に好まれないのだと思う。ああ、でもそういうゲームも作ってみると面白いかもなぁ。ツンデレが難易度高そうだがw
そんな考えもあって、マルチエンディング自体にはあまり抵抗を感じない。というか、クリアした相手が、繰り返しの中で、同じ道筋を辿らない限り主人公を恋愛対象としてみていない(フラグが立っていない)のだから、そんなことに抵抗を感じても、、、と思ってしまう。もしかしたら主人公さえその相手を恋愛対象としてみてないのかもしれないのに。
マルチエンディングってのは、人間の自由意志を表現してるともいえるんじゃないかな? 絶対に結ばれる運命の人との出会い、運命という檻があるという考えに対する、意志と行動によって結果が多様に存在するという自由という考えを、表しているんじゃないか。多少、思い込みのあるところはあると思うが、そう考えることもできる。
そんなことを、上記のアドレスのダイアリーを読んで考えてしまった。どうしようもない!