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2024/11/25 01:22 |
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今日は大学で所属していたサークルの行う芝居があったので、それを見てみた。

心を揺さぶられるようなことがなかった。

物語にも、演技にも、演出にも。

芝居である必要性があったのだろうかとも思う。

舞台に立つ役者は淡々と台詞を吐き出し、物語が刻々と進んでいくだけであった。

脚本は物語を見せる。役者は人間を見せる。演出はそれらを引き立たせる。

退屈な芝居だったということ。

どうすれば退屈じゃなかったろうか。ここでそれを考えなければ、損なのだ。

物語がどうあれば、楽しめただろう。まず、葛藤がなければ物語は楽しめないだろう。葛藤とは? ある形ではそれは悩みであり、またある形ではそれは障害である。大げさに言えば、「私と仕事、どっちが大事なの?」という問いに対して、真剣に答え、行動しなければならない状況がそうであるともいえるだろう。仕事を取れば恋人が仕事の障害となり、恋人を取れば仕事が恋の障害となる。どちらにすべきかという悩み、どちらかにしなければならないという強制。制限時間がついているとなおその葛藤は明確なものになる。どちらも取ろうとしたとしても、状況がそれを許さなくさせるのである。この葛藤を解いたときに起きるのが、カタルシスなのだ。カタルシスをより良いものにするには、葛藤の渦中にいる人物が行う決定に尊さを感じさせるものが良いだろう。その人物の取った行動の裏にある意味が、理屈だけではなく、感情として理解できるものが。納得できるものでなくても、それもありえると思わせれば。少なくとも葛藤は必須なのだろう。

役者がどうあれば、楽しめただろう。これについてはよくわからない。けれど、少なくとも、人間味が出ていなければ、楽しめないなとは感じた。人間らしさといえばいいのか。まあ、これが難しいのだとおもうけど。自然な振る舞いでなくてもいいのだと思う。人口的な、わざとらしい立ち振る舞いでもいいから、、、ってそうじゃないか。まず役者が楽しんで、夢中になって動くことができたらいいのかもね。何かから動かされるように演じているのを見ても、楽しくなかったもの。

演出がどうあれば、楽しめただろう。脚本の中身にもよるのか? いまでも残っているかつての反省で学んだことは、できる限り色々な表現を試して見なければわからないということか。思いつきでやってみて、面白かったら取り入れ、つまらなかったら止める。それの繰り返しなのかも。

物語については語れるけど、ほかについてはあまり語れないね。

でも、まあプロの劇団じゃないんだし、あれでいいっちゃいやいいのかもしれない。

俺も芝居の台本書いてみようかしら。後学のために。
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2008/09/26 01:42 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択

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